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挨拶状を読んでくれましたか

5月中旬から、朝日新聞にコラムが連載されている。4回の連載で明日が3回目だ。
こまめではない私だから、年賀状、暑中見舞いは、もちろん、お礼の手紙も書くことがない筆不精だ。ただ お願いの手紙(メール)はいつも書いている。

今回のコラムで昔の友人から「コラム見たよ」というメール、電話等のメッセージがたくさんあってびっくりした。
たまには、生きている事を友人達に報告するという意味では、本当にありがたい機会であった。
特に小学校、高校時代の同級生から、お前も俺ももう50歳になったのかという何とも言えないメールが届いたが、通常、自分自身が読んでいる新聞欄で 50歳と書かれた記事を見ても何も思わないのだろうが、自分の同級生のコラムに50歳と書かれていてある何かを感じるのだろう。

しかし、気は持ちようで、もう50歳というのと、まだ50歳、やっと50歳では、響きも、その人を想像するにもかなりの違いがある。
やはり、「同級生よ。まだ50歳か、 これからが本番だな!」というのが、能天気な感じで良いと思う。
世間で言う50歳は、それ相応の経験と責任を持っているように思えるが、それが幼馴染に関してでは、そうは思えない。いつまでも学生時代のままのガキなのである。頭が、ちょっと薄くなったり、顔に皺が増えても同じである。
そんな友人からのメッセージは、本当にありがたいし、嬉しいものだ。

スカラ座

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今シーズンも昨日のチャンピオンズリーグ決勝、今日のコッパイタリア決勝で幕を閉じる。
私もあと数日間の怪我人のリハビリでバカンスに入る。
先日、5月3日に夫婦仲良くミラノのスカラ座に行って来た。と言ってもオペラやバレーを観に行って来たのではない。以前にもこのブログで紹介したピアニスト、ピッコログランデ(本名はElena Chiavegato 彼女のホームページが出来たので一度訪れてください)について書いているが、その彼女が、スカラ座で有名ピアニスト LANG LANG公開レッスンの生徒としてオーディションに合格し、他2人の若きピアニストと共に指導を受けたのである。 オペラとかバレーでは、興味もないが、自分の知り合いがスカラ座で演奏するという事で、仕事もそこそこに行って来た。もちろん スカラ座の前は頻繁に通るが、中に入ったのは初めてである。(家内は数回すでに経験している。)

このLANG LANGという人物をただスカラ座で指導する一人のピアニストであろうくらいにしか思わず、予備知識も無いままに行ったのであるが、第一印象は、何か田舎くさいという感じだった。お世辞でも格好良いとは言えなかった。私のイメージするピアニストとは、かけ離れていた。
ところが、まず、一人目の青年が演奏し、その演奏の指導を始めたのである。LANG LANGが、ある部分をもう一度弾かせ、彼のイメージ、および楽譜のポイントを詳細に説明した。その後、彼がその部分を演奏したのである。
その青年の演奏を聴いてもすばらしいと思ったが、この同じ部分をLANG LANGが弾くと全く違うのである。
こうも違うのかと愕然とした。
同じ曲を弾いているし、青年の弾いた音色も決して悪いとは素人なりに思わなかった。むしろLANG LANGの演奏を聞かなければ、それで満足であった。
しかし、LANG LANGの演奏を聴くと、この青年が弾いた曲とは、別物のように感じた。以前に、指揮者が変われば、その曲も変わる事は、聞いていたが、眼の前でその現実を体験し、少し興奮した。

この二人の違いは何なのだろうか。多分、技術的な物ではないと思う。
それは、ピアニストとしてというよりもその人のその奥深さの違いなのではないのだろうか。同じ楽譜を見て何を表現できるかなのだろう。
青年の演奏はすばらしい。しかし より素晴らしく聴こえるには、音符と音符が連なる…

変更

このデザイン評判悪いので元に戻しました。

デザイン変更

「水も滴るイイ男」のブログのテンプレートデザインは、やはりこれだな!

苦労するという事

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人の成長に必要な事の1つに「苦労すること」があるようだ。
戦争を1つの区切りにして日本人の思考、行動も変わってしまったようだ。

私の母の口癖の一つに 「子供だけには、私の味わった苦労をさせたくない」というのがあった。
私の母は、5人兄弟の長女で、15歳の時に母親を亡くし、いろいろ苦労したようだった。
今の時代に比べて、日本の一般的な家庭では、戦後の貧しい時代を経験している方々は、「わが子だけには、私のような苦労させたくない。」と思って、子育てのためだけに人生をささげて来たような人が多いと思う。
しかし、そのように育てられた人間は、何かが足りない。どうも人間は「苦労しないと立派になれない。」というのがあるようだ。

自分が苦労をするとそれを子孫には経験させたくないと思うのは、親心として当たり前なのだろう。
しかし、その子供は、苦労を経験できず、甘さが出てしまう。

私も今の時代の象徴の一人であるように苦労をせずに育ってしまった。それは、家族が心温かく頑張って育ててくれたからなのだが、結果として甘い考えしかできない大人になってしまった。
私のオヤジが、「若い時の苦労は買って出よ。」と機会がある毎に言っていたが、今の若者が育つ環境は、苦労なしでも、どうにかなってしまう状況なのかもしれない。つまり、平和すぎる時代なのかもしれない。
しかし、戦後60年は、そうだったかもしれないが、将来の60年後は、そうはいかないのではないだろうか。戦後の日本と今の日本、そして将来の日本は、かなり違うような気がする。

だからこそ 今、親が積極的に子供に苦労させる必要があるのかもしれない。 
子供を大切に育てるという事には、異論はないが、良い苦労は進んでさせなければならない。
しかし、良い苦労と悪い苦労は、どう違うのか?そして、同じ苦労でも 乗り越えることが出来た場合は、良い苦労であり、耐えることが出来なかった場合、質または量のどこかが原因で、悪い苦労になってしまう。とても難しい。

我家には、ノホホンと生きている子供が4人もいるが、この子たちには、苦労などという言葉は死語に近い気がする。
もし、私の仕事がここで途切れてしまったら、子供達はどうするのだろうか。そこで 初めて「苦労する」という言葉を強く感じるのだろうか。
今、私が頑張る分だけ、逆に子供達を不幸にしているような気もするが、考え過ぎだろうか…

campione

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